モンゴル通信 モンゴル高原から送るEメール

ギルモア著「モンゴル人の友となりて」
第1章 草原「上陸」
日が暮れてから何時間か経ち、すでに夜は更けていたがなお行進を続けていると、突然右手のほうに数人
の大きな叫び声が聞こえる。やがてきょう車が道を外れて草地に入ったのが感じられて、数分後我々は立
ち止まった。
牛車の戸口に這いよって帷をかかげると、暗闇の中に一人のロシア兵が跪いてごうごうと火を噴いている
のがぼんやり見える。火は時折弱い炎をユラユラ立て、その瞬間だけ、ちょうど兵士の顔とその背後に半
ば張られたテントの真っ白な内部を浮きあがらせる。
声高にモンゴル語を話す多くの人々が香車のそばに集まった。まもなく眼が周囲に慣れてくると、その辺
に雑然と横たわる駱駝や荷の暗い輪郭を識別することができた。
シナ人の御者は、予定のごとく私をシナ宿に案内せずに、この広々とした平原につれて行き、二頭のラバ
を外し、同行して砂漠を横断するはずのモンゴル人隊商の宿営に私を残して立ち去った。
我々は正午少し過ぎに張家口を出発して、休止することなく行進したのであった。行路の一部は高峻な峠
越えで、鋭い大気が鋭い食欲を刺激した。暗くなって様子が判らなくなってからは脳裏に皿のずらりと並
んだ魅力ある光景を想像して、ここ一ヶ月は望みようもない昨夜の旅店の厚遇を思ったのも当然であろう
。
覗いて見て、見出したのが旅店のには(院子?)ではなく、広野に宿営している隊商であったのには驚い
た。幻影のご馳走は消えうせた。
もう旅店とは交渉がない。私はすでに砂漠の旅にかかっているのだ。
私は食料や炊事道具を十分に準備しており、どれもキャラバンの荷物の中にあるのだが、闇のなかでは品
物を捜し出すのが容易でなかった。おまけに、夜はすでに三更(午前零時からの二時間)に近く、火はな
かなか燃え上がらない。隊商の外の者は食事をしていないので、手間取るよりはと、提供された火の使用
を断り、食事を共にしようという申し出を受けた。
このことが決まって、我々は焚き火の周りに集まり、炊事の進行を見守った。持ち出した大きな鉄鍋は新
品で、まず清掃に取りかかったが、洗い方がきわめて不満足なので、私自身は冷鶏肉にしようと思った。
これは、親しくモンゴル旅行の困苦を経験したことのある一婦人宣教師が親切にも周到に贈られたもので
、火明の傍で一部分を喫し、今火床から外したばかりの鍋から木椀によそおっているモンゴル人とロシア
兵とを残して、夜を過ごすべく香車に退いた。
香車は一人の男がのびのびと横たわるに十分の長さがあり、昼間の疲労と奇異な環境とを忘れて早くも眠
りに落ちた。
翌朝、香車から顔を出して見ると、太陽はすでに空高く上がっていた。モンゴル人たちは焚き火を囲んで
、昨夜私が引き取るときにつついていた鍋をじっと見ている。今度は米ではなく茶を満たし、恐ろしい勢
いで沸騰すると、汲み出してはこれを高い所からあけ返して鎮める。
駱駝はそれほど遠くない場所に散在して、平原を覆う植物や草花の真っ只中に食んでいる。やや離れて少
しばかりモンゴル・ゲルがあり、その背後は昨夜越してきた緑色の丘陵の波、前方は明日出発して行くべ
き広々とした平原である。
この日は日曜日で、いずれも旅行者たちが到着して我がキャラバンの勢揃いを待つばかり、愉快な休息に
終日を過ごした。
一度だけ、突然椿事が勃発して休息が破られた。
大きな喚き声が起こったのでモンゴル・ゲルの方を見ると、一行のロシア兵が、そこの犬に追いかけられ
て全速力で走っている。犬が速くもこれに追い付こうとしているのが見えた。一時事態はどうなるか判ら
なかったが、距離が遠くなかったので、当ての外れた獣どもがとびかかる前に、兵は低い戸口から逃げ込
むことができた。
彼は危険を慮ることなく、不注意にゲルの方を逍遥したのである。すると少し離れた平原上にいた犬が、
突然彼を見つけて追いかけてきた。これを認めてだれか親切に注意してやらなかったら、犬どもは彼の気
付かぬうちに跳びかかったであろう。
追いかけられた者がうまく逃げおおせるやいなや、傍観者・土民、それから被追跡者の感情は一時にゆる
んで爆笑した。
しかし、この冒険は、事は些細であるが、見知らぬものがモンゴル人のゲルに近づく場合の注意を、きわ
めて現実的に教えたものとして役に立った。

夕方になったが、待望の旅行者たちは姿を現わさぬ。彼らが到着して、一同の安眠を破ったのは、実に夜
に入ってしばらく経った後であった。
翌日、早く朝食を終わり、私と砂漠行を共にするロシア人家族の警護に来た数名の友人が朝の狩猟に出か
けると、その間にモンゴル人は熱心に荷物を整理して駱駝に積み、最初の半日の行進の準備をした。
正午の休憩を行うとまもなく、狩猟家は戻ってきて、宴会が行われ、歓談に花が咲いた。
いよいよ最後のさようならの挨拶が交わされたが、ロシア人の男同士が互いに接吻して別離の情はさらに
切なるものがあり、日没約一時間前、ついに袂を分って友人らはシナに向かって南下し、我々はロシアに
向かって北上した。
ちょうど船に乗って航海に出ようとしているとき、航海者が友人に最後の挨拶の手紙を残すのと同じよう
な感慨だ。
われわれは今や、シナ北境の城邑である張家口からロシア南境のキャフタに至る、行程約八百四十マイル
の、一月あまりの旅のスタートを切ったのである。
キャラバンは、数年張家口に在留し、妻と子供四人、兵士一人を連れてこれから故郷のシベリアに戻るロシア人郵便局長、私、それに駱駝と駝車を御する四、五人のモンゴル人から成っていた。
そのロシア人兵士は彼の主人のことを「司令官」と呼んでいた。
郵便局長は彼自身と家族の用に駝車二輌と、別に食料や家財道具を運ぶのに数頭の駱駝を持っていた。
私は駝車一輌と荷物を積んだ駱駝を一頭持っていた。
ロシア兵は駱駝の荷積みの上に跨り、この他穀物を輸送する一列の駱駝がいたが、これはモンゴル人の個
人の商売用で、われわれもこれらモンゴル人から駱駝を借用したのである。
行進の規律は砂漠の景観そのもののように、規則正しくかつ単調であった。
日の出と共に全員起床して、朝食を調理しこれを認める。それより行進を開始して通常は正午まで続く。
この時間になると、どこかテントを張る適当な場所で休止を宣し、駱駝は解いて付近に放牧し、一日中で
のご馳走を作って腹ごしらえし、日没一時間ほど前からまた新たに行進を開始する。
この夜間行進は最も長時間行われ、普通三更過ぎるまで、時としては翌早暁まで続く。
砂漠の道路は大部分凹凸なく、駝車の震動も睡眠を妨げなかったが、ただ汽船の乗客はスクリューが止ま
ると眼を醒ますように、駝車が止まると起きるのが気になった。
すでに長い間旅行を続け、休止も幾度か重ねたが、我々、ロシア人は両親と子供、私は召使がいないので
料理番と二人、はほとんど交歓の機会がなかった。時間と機会に恵まれた時でも、なかなか会話を交える
というわけにはいかぬ。ロシア婦人は母国語の他の言語は解しないし、私はまたロシア語を少しも知らな
いので、挨拶の交換はだんまりで行わねばならなかった。
彼女の夫、つまり「司令官」は多少中国語ができ、私もすこしばかり知っているが、中国語に行き詰まると、モンゴル語で私に意思を通じさせようと兵士を呼ぶ。
しかし私はモンゴル語については中国語よりいっそうあやふやなので、それも無駄な努力であった。
一日中で郵便局長と私が会話を試みうるのは日没から暗くなるまでの間だけで、この時は子供も静かであ
るし、彼と私はキャラバンの周辺を涼を取りながら散歩し、できる限りの会話をする。
なんとも手段が付かなくなると、彼は最後の方法に頼る。ズボンのポケット深く手を入れて、ロシア語中
国語会話帳を取り出し、ページを繰って、私に判りはしないかと中国文を指し示す。判るときもあり、判
らぬときもあった。
郵便局長は、張家口に来ているロシア人のご多分に洩れず、スポーツマンでありまた極めて優秀の狩猟家
で、しばしば鴨や蒼xxを撃っては食膳を賑わした。
ある時彼は小川の辺に降りた蒼xxの中から四羽を撃ち取った。
この時は射撃によらず、乏しい弾薬を節約するために道の小石を拾って集めてこれを用いたことから、な
おさら信用を博した。
食料品については、われわれはそれぞれ自己用のものを持っていたが、事実上唯一の難点は獣肉にあった
。
張家口出発に当り、私は羊の乾し肉を準備し、郵便局長は編み籠に鶏肉を持ってきた。鶏肉と乾羊肉と
は時を同じうして消尽したので、必要な際には羊を買い、局長が大家族のために大部分を取り、小さい部
分は私に割り当て、またモンゴル人たちも内臓の分配にあづかったが、これを彼らは最上の珍味と思って
いるらしかった。
三百マイルも往ったころ、モンゴル人たちは直通路より外れて己の家郷の方に回り道し、われわれには新
しく駱駝と人員を世話した。
これが張家口より六百マイル隔てる庫倫(ウルガ:現在のウランバートル)
に我々を案内し、同地において契約が満了するのである。
この地においては郵便局長の厚意により、残り
の三分の一の行程をキャフタに案内するモンゴル人の駱駝の見つかるまで、二日間領事公館で歓待を受け
た。
庫倫(ウルガ)北方においては地域の景観は面目一新する。樹木のない大平原の代わりに、森林に被われ
、肥沃な河谷を貫く渓流に劃された山地が現れる。庫倫出発に当って、我々はきょう車を曳く牡牛を雇うために、xx茶を用意した。突破すべき山徑は、駱駝にとってあまりに険阻高峻なのであった。
もっとも、荷積の駱駝はそれほど困難なく峠を越えたが、坂道はきわめて急なため、牛は山越えの旅人用
に充てるために飼育賃貸したものであるけれども、きょう車の牽引をひどく嫌がった。けれども、大体予
定した期間内に、また大した災難もなく全行程を歩き切ることができた。
ただし、小さな事故はなかったわけではない。
一夜私は虚空に舞い上がったように感じて眼が醒めた。
きょう車が転覆して、私は内部の荷物の一番底に下敷になった。這い出すのにいくらか時間を要したが、
出てみるとロシア兵がモンゴル人に不注意で事故を起こしたのだと猛烈に食ってかかっている。
「司令官」が部下の応援に出たのを見て、私は急いで仲裁に出たが間に合わず、モンゴル人はロシア人の
敵ではなく、すでに猛烈に撲られていた。
予定の月末のある朝、一行が突然松林地帯に出ると、前方のあまり遠くないところ、湿潤な浅い谷の向こ
う側にキャフタを望見した。
ひときわ高く目立つものは教会で、聳え立つ円蓋のまぶしいような白さは遠くからも認められ、シナから
砂漠を横断してきた旅人にとって再び文明に近づいたことを示す最初の標(しるべ)である。
キャフタと白い教会とは近づくようではあるが、実際の距離は目で見た所より遠く、ことに渓谷の底を流
れる小川は河床があまりに柔らかいため駝車を通せず、迂回して渡渉することになり、なおさら遅れてし
まった。
やがてキャフタに到着すると、キャラバンの全員は教会の前に行き、ロシア人は全員祈りを捧げにこれを
訪れた。
それから我々は二マイル離れたロシア領の人口三、四千人の町トロイツコサフスクに行った。
ここで道連れは、ロシアの役人のために設けられた宿舎に入った。彼らは数日後どこかシベリア奥地に旅
立った。
モンゴル人に賃金を支払い、適当な心付けをやって解雇してから、そのうちの一人のラマ(モンゴル語で
僧侶)が戻って来て、私にロシア銅貨一枚を差し出した。
銅貨自体の価値は小さいが、私は一人の男の与
えられたものに対する感謝のしるしと考えて、この贈り物をうれしく思った。
けれども、友人はこの行為の解釈を異にして、与えられたものに対する感謝ではなく、モンゴル人が友情
を暖めようとしたもので、お返しとして銀貨をくれることを私に期待しているのだとみなした。ラマの行
為にはこの仮定を肯かせるものがあり、すでに彼は価値以上のものを与えられているのだから、私は鄭重
な素振りでその銅貨を返し、その伴を打ち切った。
彼は贈り物を断られても少しも当惑した風を見せず、これを手にして立ち去った。