「ゴルバチョフ夫妻と並んで撮った写真(1)」

---叔父清次郎のこと---

この写真はゴルバチョフがライサ夫人同伴で日本を訪れた199x年に東京で開かれた歓迎パーティの席で撮影されたものです。
(写真1:叔父清次郎とゴルバチョフ夫妻)
この写真の説明をする前に、私の叔父清次郎のことを少し語らなければなりません。
叔父清次郎は、父よりも10歳も歳の離れた弟で、父と違い体も小柄で、子供の頃は病弱だったそうです。幼児期にはこの子は育たないかもしれないと思っていたと亡くなった私の祖母が言っていたのを覚えています。

(写真2:右端が叔父清次郎、中央父重雄、左叔母キク)

二十歳の歳に出征しましたが、その時の挨拶の声もひ弱げで頼りないものだったそうです。
終戦になってもすぐには帰国できませんでした。シベリアに抑留されていたためです。
祖父の兄弟たちの中には、捕虜になったことについて、影で悪口を言うものもいました。
「俘虜となるよりも死して辱めを受けず」というような考えが大勢を占めていた時代ですから、仕方のないことだったかも知れません。
私が小学校の四年生になった年の昭和2x年に叔父は舞鶴港に復員して来ました。新潟の実家の庭には、村人が詰めかけ、叔父はその人達の前で挨拶をしました。
挨拶というよりも、演説かアジテーションのような強い口調のものでした。 そのときの声は私の父と同じように良く通るものでした。 村人は、あまりの変貌振りに驚いた様子でした。 叔父の演説の内容は、小学の四年生だった私には少しも理解できませんでしたが、私の家の庭に大勢の村人が集まっているのが誇らしく思われて、縁側の柱にしがみついてその様子を眺めていました。 叔父の演説は、熱気を帯びて延々と続き、いつ終わるとも知れない勢いでした。祖父が堪り兼ねて止めに入り、長い帰国の挨拶は終わりました。 季節は春の遅い頃だったようで、叔父は馬の毛が詰まった分厚いコートを着て、ロシアの帽子をかぶっていました。帰るときバイカル湖で顔を洗ってきたと言っていました。 後に、私がバイカル湖に行って見たいと思うようになったのは、このときの叔父の話の影響かもしれません。

   (つづく)