(写真3:バイカル湖畔でロシア人の子供たちと遊ぶ 2002年7月)叔父の私へのお土産は、シベリアで買ってきた革靴でした。革靴の紐穴は、左足が八列で、右足 が七列というようなちぐはぐのものでした。その時は、そそっかしい叔父が、間違えて買ってき たものと思っていましたが、後にモンゴルに来てみて、それはごく普通のことだと理解できまし た。実に、五十年もたって真相が判明したというわけです。
それでも、当時は革の靴などめずらしい時代で、藁ぞうりで学校に通う子供がいっぱい居ました
。
古いタイヤで再生したゴム長靴が五十人のクラスで抽選で二人に支給されるという時代でした。
私も運良くその抽選に当たりました。
ゴム独特の強い匂いは今でも懐かしく思い出します。
その革の靴は、普段の通学に使った記憶はありません。そんなことをしたら、クラスメートの注 目の的になり、当時、極度に内気だった(今でもそうですが)私には、耐えられなかったことで しょう。多分、修学旅行とか、遠足とか、結婚式とか、なにか特別の日にだけ履いて行ったった のだろうと思います。
その年の初冬まで、叔父は父の農作業の手伝いをしながら、今後の身の振り方を思案していまし た。出征前に、神田の古本屋で買って、自分の署名だけして手付かずの受験参考書がいっぱい残 っていて、時間のあるときにはそれを勉強していました。
「英文之解釈」は当時有名だった小野圭次郎氏の書いたものだったので、私が高校に入ってから大いに役に立ちました。
けれども、「日本の歴史」は、縄文式時代というものがなく、神代の時代から始まっているので大いに戸惑いました。
叔父はよく大きな声で歌を歌いました。 すべて、シベリア、ロシア、ブルガリアなどの歌だったり、インターナショナルの歌だったりしました。 「豊かなるバイカル」とこ「ここは遠きブルガリア」とか「シベリアよわれらの大地と青春」と 言った歌詞を私もいつのまにか覚えてしまっていました。 後に、ダークダックスというグループが、このようなロシア民謡を歌ってブームを作った時代が ありました。
叔父は気分が良い時には私になぞなぞを賭けました。
「八百屋に菜っ葉を買いに行ったが売り切れてなかった。次に酒屋に酒を買いに行ったがこれも
売り切れてなかった。それなーんだ」といった類の他愛のないもので、答えは「なさけない」で
した。
しかし、当時の私としては、とても良くできた謎々だと思い、学校の教室や学校の帰り道でその
謎々を友達に出して、正しく答えられないのを知って得意になっていました。
その年の刈り入れも終わって一段落した初冬の頃、叔父は東京に出ることになりました。 「東洋におけるスイスの如く・・・」と言うのが叔父が自分の夢を語るときの口癖でした。 当時の私には理解できなかったけれども、社会主義の良い所と資本主義の良い所を組み合わせた叔父の考えていた自由で平等な理想社会(ユートピア)のことだったと思います。
東京に行く前の晩、横座でささやかな送別の宴がもようされました。
横座の神棚に明々とろうそくが点され、一升枡には当時のお金でいくらだったかは知りませんが、私の父が工面して集めた軍資金が盛られていました。
子供ながらも、その時の雰囲気に一種異様な悲壮感というか緊張感を感じ取ることができました。私は、貯めていた小遣いを全部叔父に差し出しました。十円玉が数個という程度のものだったと思います。
それでも、叔父は私から押し戴くようにして、それを受け取ると恭しく神棚の枡に入れて、神妙な面持ちで柏手を打ちました。
私は、一人前に扱ってもらったことがうれしく得意でした。